人魚王子


深い深い海の底に、人魚の国がありました。
読んで字のごとくサカナの頭とヒトの体を持った種族――ではなく、ヒトの上半身とサカナの尾びれを持った
水中で暮らす亜人です。もちろんヒレだってエラだってあります。お魚だもの。
人魚たちは日々プランクトンなどを摂取しながら慎ましく生きておりましたが、どこにでも変わっている
人はいるものです。人魚だって例外じゃありません。
人魚たちの髪は比較的色素の薄いものが多いのですが、彼は墨を少し薄めたような髪の色をしていました。
人魚は保守的で平和的なものが多いのですが、彼は六つ向こうの岩場まで行ってサメを退治するのが好きでした。
実は彼はこの国の長の息子なのですが、そんなことは誰も覚えていません。何せ長には30もの娘と21もの
息子がいるからです。人魚は子だくさんなんですね。彼は平穏な宮殿の暮らしとやかましい兄姉に飽き飽きして
長の息子という地位を捨てたのでした。それがざっと15年ほど前になります。
さてこの彼を、人魚たちは地上の人間たちの落とし物からこう呼んでいました。
アサシン、と。
この辺の海域は普段は穏やかなのですが、嵐となると荒れ狂うので人間の船が難破することはよくありました。
その時船から落ちてくるものを、人魚たちは地上の生活を知る術として大切に扱っていました。
その中で、見事に怪物と戦ってそれを打ち倒したレリーフが混じっており、その図のタイトルがアサシン
だったのです。呼ばれた方はどうでもいい風でした。
さてこのアサシンなる青年は、海の底には自分の相手になるような強い海洋生物がいないことに
気付いてしまいました。この辺りの海にはクジラはいません。
彼は人魚にしては血気盛んの変人魚だったので、地上にはまだ見ぬ強い生き物がいるかもしれないと
ちょくちょく海の上に顔を出すようになりました。しかし、陸地がそこにあると知っていても流石に
首まで水につかっていないと息が出来なくなりますし、尾びれは歩くには適していません。
生き物が血を流して息絶えていく様は好きでしたが、自分が傷を負うのはあまり好きではありませんでした。
陸地の生物は諦めて、魚を狙いにくる鳥を不意打ちで倒す練習を重ねていたある日、それは起こりました。
彼に言わせれば運命の日でしたし、もう一人の彼に言わせれば災厄の始まりでした。



その日のアサシンは、荒れ狂う波の中でどれだけ早く泳げるかに挑戦していました。
要するに恐ろしい嵐が来ていたのです。海の底まではそんなに荒れませんが、海上付近の荒れる波は
彼にとっていっそ心地良いほどでした。彼は、物心ついてからずっと何かに追い立てられるように
生きてきました。決定的な何かが足りなかったのです。
と、一心不乱に泳いでいた彼の前に、一隻の定期船が見えました。
船腹に大きな穴が開いたその船は、傾いて今にも沈んでしまいそうです。ボートが何艘も下ろされ、
船員たちは必死にそちらに乗り移ります。実は彼にとって初めて見た人間という生き物だったのですが、
それは雨と風と距離に邪魔されてぼんやりとしか見えませんでした。
あのボートも沈めたらどうなるだろうか、と彼の頭に疑問が浮かびました。
アサシンにとって泳ぐことは何よりもたやすいことでしたので、それが人間には命取りだということなど
わかるはずもありません。
なんとなく濡れたおふを思い出させる笑みを浮かべて、泳ぎだそうとしたその瞬間でした。
めき、ばりばり、と木が割れる音がして、いっそう強い風が吹きました。
立派なマストが折れそうになるのを、彼は見上げました。
そして、ああなんということでしょう!
マストから逃れようと甲板の端にまで寄った青年の頭めがけて、妙にどでかい鍋が飛んでくるではありませんか。
飛び降りるべきか、とシリアスな面持ちで海面を見つめた青年の後ろ頭に、それはいい音を立ててぶつかりました。
カーン!
端で見ていたアサシンも、思わず痛そうだなと呟くほどでした。彼は金属の鍋にこそぶつかったことは
ありませんが、目を閉じて泳いでいてでっぱった岩に頭をぶつけたことならありましたから。
哀れ青年は打ち所が悪かったのか、そのまま気を失ったあげく海へと真っ逆さまに落ちてきます。
甲板には乗組員は残っておらず、アサシン以外これを見ていたものはいませんでした。
衣服が水を吸って、意識のない青年の体はごぽごぽと沈んでいきます。
興味を引かれたのか、アサシンはのんびり泳いでいってその青年を海面まで引き上げてみました。
つばひろの帽子は海の底へと沈んでいき、アサシンが顔に張り付いた金色の髪を退けてやった瞬間でした。
ごろーん、ごろーん、あるはずもない鐘の音が鳴る音が確かに彼には聞こえました。
顔色をなくした青年の表情は痛みに引きつっていましたが、唇は柔らかそうに見えます。
詩人風の装いからして乗組員ではないのでしょうが、アサシンにそんなことは関係ありません。
そう、彼は今、生まれて初めて恋に落ちたのです。
同時に彼は、生まれてこの方消えることのなかった焦燥感の正体をも理解しました。
彼は常になにかを求めていました。それは強さであったりスリルであったり楽しみであったりしました。
それら全てが、自分に足りない片割れを埋めるべくした行為だったと理解したのです。
思いこみの激しい人魚は恐いですね。
とにかく、誰にも見つからないうちに青年をどこかへ運ぶ必要がありました。
乗組員に見つかっては厄介ですし、あまり海に人間をつけておくのはよくありません。
いっそ海の底へ持って帰ろうかと思いましたが、それでは死んでしまいます。
数秒思案したアサシンは、青年を抱えたままゆっくりと陸地の方へ向かっていきました。



暖かな日差しが頬に当たっているのに気が付いて、バードは目を覚ましました。
そう、昨夜嵐の中で鍋に当たって海に落ちたあげくアサシンに惚れられた青年です。
ずきずき痛む頭を抱えながら起き上がろうとして――バランスを崩して海に落ちかけました。
「うわわっ!?」
慌てて体勢を立て直してよく見ると、そこは海の上にぽつんと取り残された岩のてっぺんでした。
振り返れば陸地がありますが、三十分は泳ぐ必要があるでしょうか。
えーもしかして助かったけどこのまま漂流パターンー? と彼が世を儚んだその時、目の前の海面から
黒い髪の青年がばしゃりと頭を出しました。
「ぎゃー!」
ちょっとしたホラーでした。バードは海坊主かと思ったぐらいです。
「やあ、おはよう」
しかし髪をどけた海坊主もどきは、存外爽やかな笑顔をバードに向けてきました。
混乱気味のバードでしたが、反射的に返事をします。
「おはようさん……あんた、誰?」
本当はあんたなに? と聞きたかったのですが流石に失礼かと思い直しました。
「僕? 僕はごらんのとおり」
ぱしゃんと小さな飛沫を残して、彼の姿は海中に消えていきます。
バードは確かに、ひるがえった魚の尾びれを見ました。朝日にきらきらと光るうろこをいっそ綺麗だとすら
思いました。空腹と混乱で頭が回っていないようです。
「人魚。他のみんなはアサシンって呼ぶけど」
再び頭を出したアサシンはにこりと笑いました。バードもつられて笑いました。
おいおい人魚かよー伝説の生き物じゃねーかーとは思っていましたが、何だか疲れて騒ぐ気がしないのです。
一応職業上、色々な変なものには慣れています。友人にも不思議な生き物は何名かいます。
「うん……俺バード、詩人やってる……俺助けてくれたの、あんた?」
「一応ね」
バードはまだぼんやりとした頭のまま、衣服をあちこち調べてみました。
まだ湿っていますがびしょぬれではなかったので、嵐は夜のうちに過ぎたと思われます。
ぽん、と腰の辺りを叩いて、バードの頭がすっと冷えました。
「だあっ! やっぱりなくしたか……」
がっくりと頭を垂れるバードの様子を、海面に顔だけ出したアサシンが不思議そうに見ます。
首の後ろを軽くかいて、彼はため息を吐きました。
「なあ、俺の楽器ケース……これぐらいの、金属で出来た箱知らないか?」
これぐらい、と身振りをするバードの手を興味深く眺めてから、アサシンははっきり首を振ります。
「僕がここまで連れてくる時にはもうなかったね」
「そーかあ」
明らかに落ち込んだ様子を見て、アサシンは胸がきゅんと苦しくなるのを感じました。
目の前の青年が落ち込んでいるのが自分も悲しい――わけではなく、その表情が何とも言えずツボだったからです。
やっぱり運命の人かも知れない、と勝手に思いこんで、アサシンは励ますように明るい声を出しました。
「丈夫なものだったら、僕の国に流れ着いてるかもしれないよ」
「本当か!?」
バードはすぐに食いついてきました。表情もさっきとは一変しています。
こっちの顔も好きかもなあと思いながら、アサシンは言葉を続けます。
「大事なものなんでしょ?」
「ああ、商売道具だし、もうすぐ王宮公演もあるしなー」
「じゃあ、明日にでも届けてあげるよ」
そう言われて、バードは戸惑いました。
「ここまで泳いでくるのは、ちょっと」
あんまり泳ぎは得意ではないし、楽器ケースは海を渡るために金属のものにしたため、なかなか重さがあります。
そんなことを考えていたら、目の前の人魚は首を振りました。
「いいよ、君の家を教えてくれたら届けてあげる」
事も無げに言う彼に、バードはいささか狼狽します。
「でも、陸上だけど」
バードの目は明らかに海中の尾びれに向けられていました。
「どうにかなるよ」
実際あてはありました。そもそも、人間を海の底に連れて行くのが出来ないなら、自分が地上に上がるしか
ない、とまでアサシンは思い詰めていました。恋は人を変えます。
「じゃあさ、陸まで送ってってくれないか?」
「構わないよ、背中に乗っかっていればいい」
とても親切なアサシンに、何となく変なものを感じてバードは疑問を口にしてしまいました。
それは野生のカンとか第六感とか言われるものでしたが、それを口にしたのは失敗に違いありません。
「あんた親切だなー、人魚ってみんなそうなのか?」
「ううん、僕が君のことが好きなだけだよ」
神経がぶっつりと切れる音を、確かにバードは聞きました。
そのまま固まること数分、このままだと誰も起こしてくれないことに気付いてバードは自力で我に返ります。
「はっはっはにんぎょってのはしんせつなしゅぞくなんだね」
アサシンの台詞を脳内で修正したつもりでしたが、現実はそう甘くはありません。
するりと足に絡みついてきた濡れた手に、悲鳴を上げるのをこらえます。
「照れてるの? かわいいなあ」
「それは違う」
即答でした。
バードは即座に適当な言い訳を組み立て、並べ立ててみます。
「気持ちは嬉しくも何ともないが、俺は男だしそもそも人間と人魚だしっ」
本音が混じったのは仕方のないことでしょう。
「愛に種族も性別も関係ないよ」
台詞の前半部分は爽やかに無視して、端から聞けばまともなことをアサシンは言います。
バードとて、それが自分に対する睦言でなければ捨て置いたでしょうが、場合が場合です。
「愛というのは双方の心が必要でっ」
「やだなあ、君も愛してくれないとー」
アサシンは笑顔のまま、バードの向こう側に見える陸地に目をやりました。
そこではた、とバードは気が付いたのです。
服を脱いですら泳ぎ着けるかどうか、体力もない今では力尽きる可能性の方が高い距離にある陸地。
近くに港もなく、中途半端に陸に近いため船が通りかかるのを待っている間に餓死しそうです。
つまり、逃げ道がありません。
ついでに言うなら、彼の大事な大事な楽器すら海の底にあるのです。
(ま、まさか……全部計算済みか!?)
イヤな考えがバードの脳裏に浮かび上がります。アサシンは未だ笑んだまま。
それは究極の選択でした。
海の中の妙な生物という点はいいにしても、何か不穏な雰囲気を持つ男と恋愛して己が命を守るか、
プライドを保って針ほどの可能性に賭けるか。
「…………好きになるように努力しますので、陸まで連れてってください……」
彼は確実に命が助かる方を選びました。ちょっぴり泣いていたようですが、きっと気のせいでしょう。
その言葉にアサシンは本当に嬉しそうな顔をしましたので、バードも少しは明るく考えることにしました。
人はそれを無意識の防衛本能といいます。
「じゃ、おいで」
差し伸べられた手をうっかり信頼したため、バードはあっという間に海の中へ引きずり込まれました。
「がべがばごぼぼぐばば!?」
せっかく乾いた服は上から下まで水浸しになり、驚いた拍子に開けてしまった口から大量の海水を飲むはめに
なったバードは、もう二度と信じないと心の中で誓ったとか誓わないとか。




「というわけで、足が欲しいんだけど」
「はあ……まあ今更地上の人間との恋がどうたらということは言いませんけどね」
海の中で何の役に立つというのか、昔拾った片眼鏡を常に身につけている人魚はため水をつきました。
あの後無事にバードを陸地まで送り、連絡先もせしめたアサシンは暗い洞窟に住む彼に会いに来たのです。
彼は、端的に言えばアサシンと同じように変わった人魚でした。
変態もとい変人魚、もといマッドアルケミストの人魚です。どういう技術を使っているのか、
海の中で様々な薬を作ったり妙な生命体を作ろうとしたりしています。
アサシンの手にはちゃんと探し出した楽器ケースが握られています。海の中で開けると水浸しになって
使い物にならなくなりそうなので、中身は確かめていません。
足足、と棚を漁っていたアルケミストはくるりと振り返りました。
「こんなのどうです? いつでも脚力アップ・うさぎHYPER」
「ウサギの足が何の役に立つのかな」
「冗談ですよ」
そういう割には少々寂しそうに、どすわかめ色をした薬を棚に戻します。
「じゃあこれ、二股になりたい貴方へ〜ヒレが別々に動く感動〜」
「ヒレで陸を歩けと?」
「冗談です」
瓶と薬、どちらが蛍光ピンクに輝いているのかわからない薬のラベルには、ヒレが二つに分かれた
人魚のイラストがついています。やたらと上手でした。
「要するに、人間になる薬でしょう?」
貴方はいつも言葉が足りませんよ、と言い置いて、アルケミストは洞窟の奥に泳いでいってしまいました。
初めから薬棚にはなかったのだと知ってアサシンの目つきが剣呑なものになりましたが、楽器ケースの
感触にうっすらと頬を赤く染めました。恐くて見ていられません。
「こちらがご所望の薬ですよ」
アルケミストが泳いでくる水の流れを察知して、アサシンの顔が普通に戻ります。
それは目に痛いほど真透明の薬でした。
「ただし、これを飲んで人間になれたら、二度と人魚には戻れませんよ」
それでもいいのかと問うてくる瞳を真っ直ぐ見てアサシンは頷きます。
生まれ育った海よりも、恋人未満との生活を選ぶアサシンです。
「ところで、人間になれたら、ってどういうこと?」
その問いにはアルケミストはすっと目を逸らしました。壁を見ながらその目は、『ちっ気づきやがったか』
と何よりも雄弁に語っています。
「全員が全員、なれるわけではないんです。まあ問題はないと思いますが」
「ふうん」
まあいいか、と薬を渡してもらおうと差し出した手に、しかし薬は渡されませんでした。
「料金も払わないつもりですか」
「……何がいい?」
本気で踏み倒すつもりだったのか、アサシンが低く尋ねます。
何をもらおうか、と実は考えていなかったアルケミストは少し悩みました。
「声……とかもらっても役に立たないですし、腕とかは腐りそうですし」
恐い要求に、アサシンは抗議の声を上げようとしましたが、それより早くアルケミストが手を打ちました。
「そうだ、歯にしましょうか」
「……は?」
「下手な洒落ですね」
別に駄洒落を言ったつもりではないアサシンはむっとしましたが、彼は構わず話を進めます。
「一本で良いですよ別に」
「想像するに、とても間抜けな図なんだけど」
アサシンの頭の中には、前歯が一本なくなった状態でバードをかき口説く自分の姿が見えていました。
格好が付かないじゃないか、と思います。
「奥歯の見えないところで良いんですよ、ちゃんと差し歯もあげます」
「何に使うかは知りたくないけど、まあそれぐらいなら」
「まいどありがとうございます」
全く感情のこもっていない店員スマイルを浮かべたアルケミストは、そのまま洞窟の奥を指さします。
アサシンはちょっと嫌そうな顔をしましたが、まあしょうがないと歯をあげたのでした。





バードは、狭いながらも楽しい我が家でベッドに寝っ転がって、ぼーっと天井を眺めていました。
演奏会は明後日にせまっていましたが、よく考えれば王とも近衛隊とも知らない仲ではないし、
楽器は愛用の物がもちろん一番ですが、それでなくては演奏できないというものでもありません。
「……早まったか……?」
ぽつりと漏らした言葉は、あの時海の上で交わした約束についてです。
人魚だとかいうのはどうでもいいとして(何せ友人には元神さまとか悪魔とか竜とかいますし)、
どうにもこうにも嫌な予感が胸を締め付けるのです。
顔は悪くはありませんでしたが、彼は男でしたので同性の顔が良かろうとあんまり嬉しくありません。
「いや待て」
そもそも、とバードは考えはじめます。独り言が多いのは最早癖です。
相手は人魚なのだから、やっぱり陸地には来られないのではないか? という疑問が頭を掠めたのです。
愛用の楽器を失うのは残念ですが、貞操には変えられません。
よしそういうことにして気楽に行こう、と決意した瞬間に、悪夢はやってきました。
こんこん、とノックの音、それからやたらとのんきな声で「こんにちはー」と聞こえます。
聞き覚えがある、声でした。
「……今いませんっ」
がばりと勢いよく起き上がったはいいものの、玄関まで歩いていく気力がなくて、バードは小さく呟きました。
しかしその声が聞こえたのか、ばきっと玄関の鍵が壊される音がしました。
力任せにノブを回したようですね。
「……ああ、いるじゃない」
ぎぎい、と開くドア、その向こうに逆光を背負って佇む青年。
はっきり言ってどんなホラーサーガよりこわい、とバードは思いました。
「久しぶり、会いたかったよ」
我が物顔で家に押し入ってきた元人魚は、しっかりと二本の足で床を踏みしめて歩いてきます。
「あ、足!?」
震える指で足を示すと、見慣れた楽器ケースを抱えたままのアサシンは自分の足を見下ろして微笑みます。
「ちょっと人間になってみた」
似合う? と、どこから調達したのか普通の町人の格好をした彼は笑んだまま一回転して見せました。
可愛い女の子がやるなら様になっていたでしょうが、彼の場合はノーコメントです。
「似合う……とかでなく、そんな簡単になれるもんなのか?」
「いや、もう人魚には戻れないけどね」
結構大変そうなことをさらりと言って、彼はバードに楽器ケースを手渡しました。
何も考えずにそれを受け取って、それからバードは言われたことの重要さに気が付きました。
「ちょ、ちょっと待て! そんな……何のために」
それは人間で言うなら、全く空気もなく、見知らぬ人もいない場所に足を切られて放り出されたにも
等しいことでしょう。しかし、屈託なく笑ったアサシンはとても幸せそうです。
「君のために」
ベッドに腰掛けたまま、呆然とバードは彼を見上げます。楽器ケースを抱え込んでいるのは無意識でしょう。
アサシンはすとんとベッドの横に膝をつきました。その衝撃に、まだ足になれていないため痛みが走りましたが、
それを表情に出すことはありません。
「ずっと、君の近くにいたかったから」
「一度しか会ったことないんだぞ……なんで、そんな」
決して目を逸らさないアサシンの視線が痛くて、バードはその場から逃げ出したくなりました。
しかし、楽器ケースを取り上げられて床にそっと置かれ、その手を取られたせいで逃げ出すことは叶いません。
わずかに身を引くぐらいしか出来ることはないのです。
「きっと僕はね、君に出会うために生きてきたんだ」
(電波だ)
心にそんな単語が浮かんできましたが、雰囲気に呑まれて口に出すことは出来ません。
人魚は生まれて初めて出会った人間に恋をする、といった言い伝えがあるにはありましたが、
そんなことが通じていたのは数百年ほど前の話で、現在知っている者はいませんでした。
ついでに言うなら別に人魚でなくとも恋をしていたと思われるので、あまり意味はないのでしょう。
「愛してるよ、いとしい人」
掴んでいた手をすいと引かれ、口づけられました。
一気に顔に血が上ってきたバードが何も言えないでいる間に、軽く押し倒されてしまいます。
手の早い男です。
「ちょっと……待て!」
もう一度、と近づいてきた顔を自由な方の手で阻止して、バードはようやく声を上げました。
「俺っ、卵とか産めないからな!」
「…………は?」
その言葉を聞いて、流石のアサシンも動きを止めました。
「えーと……人魚って卵生じゃねーの?」
その間に抜け出したかったのですが、アサシンの手は上手い具合にそれを阻む場所で止まっています。
人魚といえば下半身は魚=魚は卵生=人魚も卵生、という方式がバードの中で出来ていたようです。
それなら女性が産んだ卵に男性が精子をかけるという交配方法ですから、無事ですむかなーと楽観していた
ところがあったようでした。
「うん……確かに、卵生ではあるけど……」
「だろ!?」
口ごもるアサシンを見て、チャンスだと思ったバードは目を輝かせました。
しかし、アサシンはちょっと気の毒そうな表情を浮かべています。
「人魚は……胎内受精だから」
「え」
ぴしっと今度はバードが固まりました。ということは、つまり。
「ちゃんと交尾して、受精卵を産むんだよ、女の人は」
「…………」
一度ばらけた思考は簡単にはまとまってくれず、バードはそれこそ空気の足りない魚のように口を開閉させます。
「心配してくれたんだね、ありがとう」
どこまでも自分に都合のいいように解釈したアサシンは、自分のペースを取り戻しました。
いや、ちが、と頭には浮かぶのですが、今のバードは口に出す気力がありません。
「安心して……やり方は、よーく知ってるから」
耳元でことさら低い声で囁かれて、バードはびくりと体を震わせました。
「だから安心できないんだが……」
半ば以上泣きたい気持ちでバードは必死に顔を遠ざけます。
そんなささやかな抵抗は意に介さず、アサシンはトドメの一言を落としました。
「愛してくれるって言ったよね?」
確かに似たようなことは言いました。
でも努力するってことは現実になるかどうかは定かではなく、なんて言葉が口から出せるわけもなく。
バードは諦めたように目を閉じたのでした。



それから色々とありまして、元人魚はバードの家に居候することになりました。
さくさくと家事を覚えて、今や専業主夫の勢いです。
一方のバードは売れっ子の詩人になりつつありましたが、何故か近隣での仕事しか受けなくなったとか。
現在の彼の一番の悩み事は、居候の一番好きな場所が風呂場だということだそうです。



End.








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